前一段时间笔者帮助日本独立学者Tatsuzawa Satoshi校对了一篇日本《昭南日报》在1943年殖民马来西亚时期刊行的一篇报纸上的文章报导。内容上是关于日军如何在当地与包括华侨在内的本地人就推广《五十音之歌》进行歌曲乐谱征集、汇报演出、电影宣传等“东亚共荣”行为的报导。另笔者感到惊讶的事,在和论文作者校对的过程中发现了很多让国人感到不可思议的历史细节:例如日军在当地向本地人征集曲谱时是通过当地的”游艺界人士“邵逸夫——也就是我们今天熟知的”邵氏兄弟“牵线搭桥,并在征集曲目里选择了”梅花剧团“提供的曲目——而梅花剧团所作的《五十音之歌》的曲谱则又是收到了”华语流行音乐之父“黎锦晖的影响。

这篇文章是用繁体中文写就,但是措辞半文半白(例如文言文中的“咸”,“此...系”,“盖”,“以”,“....者也”等用法),偶尔掺入日语词汇专用和制汉字(例如“关系者”,"映画")。故笔者判断该文章有可能是日军中通晓中文(尤其是文言文)的日本记者/日本帝国军宣传工作的士兵写就。Tatsuzawa是研究日本中早期动画电影产业史的独立研究者,且本研究系为八月中旬举行的日本动画学会论文发表所作,为保护版权,故隐去相关信息,仅讨论本文中的日-中(文言/现代汉语)文本翻译中的词汇细节以及笔者尝试加入英语作为第三方翻译中介的尝试。

该五十音之歌的[原曲片段](https://www.youtube.com/watch?v=VdzrgJA_iWA&t=1972s)可在YouTube视频的33分钟处考证一二。

先付原文:

挿入歌『アイウエオの 歌』の起源と採用までの経緯の再考」添付資料

資料 1:「五十音母之歌 普遍全共栄圏」 『昭南日報』1943 年 9 月 23 日付 原文

> 馬来新生後現地住民學習日本語之熱誠,與日倶達,當時之軍宣伝班,為適應住民之需要藉〔謀〕日本語普 及起見,會於皇軍入城不久,印就アイウエオ圖表卅萬枚,廣為分配,一般開始學習日本語之住民,感稱便利, 嗣後當局更進一捗,為對發音之修正起見,復於天長節前後,向現地人募集アイウエオ之歌之歌譜,経由游藝 界邵逸夫兄弟轉〔儔〕中国藝人作譜,当時應徴者甚多,結果梅花劇團黄昏氏之作品當選,〔譜〕成之後,曾 於六月一日在公會堂作一週間表演,並由昭南中央放送局録音送往東京,而最近経攝成影片在共栄圏各處上映, 為嘉奬各有関係者起見,特於本月二十一晚在大世界雲山亭召集各関係者舉行座談會,出席者咸表興奮,又悉, 大世界文化映畫劇場,近日均有演唱此歌云。 又據同盟社訊,映画「アイウエオノ歌」最近於昭南上映,其軽快之小曲,極為現地人所喜,「アイウエ オ」之聲調,流行於各街之間,此膾炙人口之歌,係皇軍於新加坡入城之時,於建設繁忙中,掲起日本語普及 之大旗,軍宣傳班於日本語入門之第一歩,即想起「アイウエオノ歌」之作曲,而向現住民募集之,在入城後, 第一次天長節後,於日本語普及週間,曾於市内公會堂公表者,当時以關係者,於二十一日同集合而觀賞在上 映之「アイウエオノ歌」之映画,同想過去之一夕。 當時之軍宣傳班員,於觀賞該映画時,感覚驚異,蓋此歌係我等於新加坡入城後,因日本語普及之故,募集 為教授現地人之歌也,此係在若干之應募作曲中選出而於日本語普及週間公開者事,此於現在之映画,應向当 時之関係者之前,現着如何之感激也。 写真為現地之姑娘們,於関係者之前,高唱着「アイウエオ之歌」之情形。

另付与Tatsuzawa校对文意后翻译的译文:

日本語訳文※〔〕内は推定

新生後の馬来(マライ)では、現地住民のあいだで日本語学習に対する熱意が日々高まっていた。当時の 軍宣伝班は、住民の需要に適応するため、また日本語普及を謀るために皇軍が(1942 年 2 月に)入城して すぐ、アイウエオ図表を 30 万枚印刷し、広く配布した。住民は一般的に日本語の学習を開始し、便利な図 表だと誰もが感じた。その後、当局はさらに踏み込んで、発音を修正するため、あらためて天長節(天皇の 誕生日を祝う祝日=当時は 4 月 29 日)の前後に、現地人に向けて「アイウエオの歌」の楽譜を募集した。 遊芸界の邵逸夫(Shao Yifu/ショウ イーフゥー)兄弟経由で、つながりのある中国人作曲者を探した。当 時、応募者が非常に多かったが、結果として梅花(Meihua/メイファ)劇団の黄昏(Huang Hun/ホワ ン フウン)氏の作品が当選した。譜の完成後、公会堂で(1942 年)6 月 1 日から 1 週間の公演が行われた り、昭南中央放送局で録音されて東京に送られたりした。しかも最近では映画化され、共栄圏各地で上映さ れた。各関係者を表彰するために、本月(1943 年 9 月)21 日の晩、特別に「大世界雲山亭」へ各関係者を 召集し、座談会を挙行した。出席者はみな興奮していた。またお知らせすると、「大世界映画劇場」では、 最近毎日この歌を歌っている。 また同盟社によると、最近、昭南で映画「アイウエオの歌」の上映が行われた。その軽快な小曲に、現地 人はとても喜んだ。「アイウエオ」の声調は、各街のあいだで流行し、この歌は人口に膾炙(かいしゃ)し た。皇軍が新加坡(シンガポール)に入城したとき、建設で繁忙する中、日本語普及の大旗を掲げた。軍宣 伝班による日本語入門の第一歩として、まっさきに想起されるのは「アイウエオの歌」の作曲であり、それ はすなわち現住民に向けて募集したものである。入城後の第一次天長節(1942 年 4 月 29 日)後、日本語普 及週間(1942 年 6 月 1 日〜)において、市内の公会堂で(「アイウエオの歌」を)公表した当時に行動した 関係者が、(1943 年 9 月)21 日、上映される「アイウエオの歌」の映画を鑑賞するために集合し、過ぎ 去った日々に思いをはせる一夜を過ごした。 当時の軍宣伝班員は、映画を鑑賞したとき驚きを覚えた。なぜならこの歌は我らが新加坡(シンガポー ル)に入城した後、日本語普及のために教授する歌を現地人から募集したものだったからだ。これは複数の 応募作品の中から選出した。それを日本語普及週間に公開したこと、これについては現在の映画にまで至っ て、いま、当時の関係者を前にどうすれば感激を示せるのか考える必要がある。 写真は、関係者の前で「アイウエオの歌」を高らかに歌っている現地の女の子たちの情景。 (資料 2 と同一のため写真省略)

資料 2:「A-I-U-E-O NO UTA」 『Syonan Shimbun』1943 年 9 月 28 日付、2 面 原文

Immediately after the Tentyo Setsu last year there was launched a Nippon-Go Week during which a party of local girl artistes sang the “A-I-U-E-O No Uta” (Song of Nippon-go Alphabets)” at the Syonan Kokaido, gaining unqualified applause from the public. Picture shows these girls singing the same song in the presence of Lieut, Sakurai and others of the Sendenbu who were responsible for the launching of the Nippon-Go Week, after they gathered to see the picture "Song of A-I-U-E-O" on Tuesday, Sept. 21.

日本語訳文(DeepL、一部手修正) 昨年の天長節の直後に日本語週間が開催され、地元の少女アーティスト一行が昭南公会堂で「アイウエオ の歌」を歌い、市民から絶大な拍手を浴びました。写真は、日本語週間のしばらくあと、桜井中尉やそれを 担当した宣伝部の面々が集まった前で、同曲を歌う彼女たちの様子です。 9 月 21 日火曜日の「アイウエオの歌」

資料 3:「五十音母之歌 普遍全共栄圏」『昭南日報』1943 年 9 月 23 日付の楽譜 (D メジャー)

資料 4:「高松宮家に献上 原住民の子供たちが歌った「アイ ウエオの歌」録音盤」『読売報知』1942 年 8 月 19 日付、3 面の楽譜 (C メジャー)

資料 5:日本放送協会、片山頴太郎(1942)「アイウエオの 歌〔楽譜〕」、『音楽教育』第 4 巻第 10 号、52-53 ページの 楽譜 (C メジャー、伴奏付) ※楽譜はすべて「LilyPond」という楽譜作成ソフトウェアで浄書した

資料 6:「〝アイウエオ歌〟流行 街には絵と文字と発音のポ スター マレーに漲る日本語熱」、『読売新聞 夕刊』1942 年 6 月 13 日付、2。 【

昭南にて藤尾特派員日発】日本のマレーになつただから日本語を勉強しよう、そして日本のお手伝ひを しよう、現地住民の協力意識の現れは日本語学習運動となつて全マレー、スマトラに漲つている、去る一日 から一週間を最初の日本語普及運動週間として軍○○班をはじめ関係各機関の後援を得て各地に大々的な日 本語学習行事が展開されている 【その一】 (略)

【その二】六月一日を期して昭南市内廿ケ所に横三間、縦二間といふ大ポスターがたてられて市民の度膽 を奪つている、これは軍○○班の考案になる絵と文字と発音のポスターである、現地各新聞も一せいに日本 語欄を設け連載している 歌の方では愛国行進曲が王座を占め廿七日の海軍記念日に海軍軍楽隊が作曲したアイウエオ・ソングが正 しい日本語の発音を歌を通じて覚えられるといふので目下盛んにうたはれている

示例一:

中文原文:

**此係在若干之應募作曲中選出而於日本語普及週間公開者事,此於現在之映画,應向当時之関係者之前,現着如何之感激也。**

日文:

**それを日本語普及週間で公開したこと、これについては現在の映画にまで至って、いま、当時の関係者を前にどうすれば感激を示せるのか考える必要があります。**

DeepL様(在翻译中,我们意识到谷歌和DeepL翻译功能在校对上的强大之处,随玩笑用“大人”(さま)来称呼他们):

** 我们需要考虑的是,既然我们已经达到了目前的有关影片,而且在日语推广周期间公开了,那么我们如何在当时的相关人员面前表现出我们的情感**

由于我们做出了该中文报导是由日本作者写就之后,【原文】翻译成【日文】的过程中带有过多的日文本身的语感,因此并没有任何语义上的争论。但是在语序上,特别是【原文】翻译成现代汉语的过程中,我们讨论了很多细节:例如在讨论是否要翻译成【まで至って】的用法时,原文中有“以至于xxxx”的意味在,若是译成「至っては」的话,Tatsuzawa和我说在日语里就平添了一层例如“你大老远的过来帮我做了xx事,感谢之情无以言表”之意。虽说原文本身是日军宣传部门为了感谢当地大佬们为了“东亚共荣”所做出的“亲善行为”,但为了信达雅地还原历史文献的原貌,如此来看大可不必加入此过多的代入假惺惺的感谢之情。毕竟再怎么感谢,也不过是殖民者居高临下的客套。

示例二:

> 當時之軍宣傳班員,於觀賞該映画時,感覚驚異,蓋此歌係我等於新加坡入城後,因日本語普及之故,募集 為教授現地人之歌也.

这句中文让日本友人犯了难,倒不是因为翻译,而是单纯的纠结新闻中所描述的事件时间线。在这里我不再赘述。不过正如前文我提到的,“盖”,“以”,“也”这种半文半白的词汇在翻译上的确很考验即兴的语言功力。我第一次在用日语聊天的时候开始用英文来清晰地进行描述:“盖”当然对应Because;“以”在不同语境下亦有微妙的翻译,例如“凭借”或者“因为”,以及其他介词,助词等等,我方才意识到近年来英文甚是生疏,凭借语感脱口而出一句“As for”却因为大脑空白而哑然失笑。“也”通常作为句尾的助词、语气词,我认为不翻译亦可,但是几番交流之后还是按照「でございます」、「というわけだ」来敲定译文。

示例三:

経由游藝 界邵逸夫兄弟轉〔儔〕中国藝人作譜。

我在校对翻译的过程中通过询问相关的细节得到了一些有趣的历史细节:名义上帮助“皇军”遍寻艺界作曲能人的地方大佬之一,不是别人,正是“邵爵士”邵逸夫兄弟。我们知道邵逸夫兄弟是中国早期电影的重要参与者,1929年代成立的“天一”影业是中国电影早期重要的制作发行公司之一。918事变后,天一影业迁往香港,因此在1937年的上海孤岛时期并未受到波及,反而整合建立了“南洋影片公司”。饶是避祸香港,最终亦是逃不过日军东南亚战争的侵略余波:随着香港-南洋地区的沦陷,邵氏兄弟的事业大受打击,邵逸夫和三哥来到了新加坡重建了后来被人们所熟知的“邵氏兄弟”公司。至于新闻中提到的“游艺界”,我想当然地认为是“艺能界”或者“演艺界”的代称。但是Tatsuzawa意味深长地提醒了一句,例如吉原“游廓”等“游”字在日语中有皮肉交易之暗示。邵氏兄弟在新加坡所从事的具体事业我并无详细考证,但能在战乱之处左右逢源,日军眼下狡猾求生,诚如沙青青老师所言,确实展现了邵爵士的生存之道。

示例四:

当時應徴者甚多,結果梅花劇團黄昏氏之作品當選。

关于“梅花剧团”我更是无处可考,家父对京剧颇有心得,可惜我并未继承其兴趣衣钵之万一。只能向Tatsuzawa兄表示,中国(华裔)社群中关于京剧、戏剧文化的话“梅花”实属常见的意象,例如我国戏剧艺术表演界的最高奖——梅花奖。而“梅花剧团”与“近现代华语乐坛教父”黎锦晖之关联,更是我所没想到的意外收获。

黎锦晖在1927年创作的《毛毛雨》被视为中国第一首现代意义上的流行歌曲。黎本人在隔年的1929年前往海外公演,并为了筹措回国旅费,一度在新加坡停留了约8个月的时间。Tatsuzawa根据当时的各种史料,以及黎本人在“新文化运动”中针对新式歌曲的创作态度,大胆做出了设想——即“梅花剧团”中创作《五十音之歌》的作者黄昏,该曲在创作中极有可能受到了数年前曾经访问过新加坡的黎锦晖的影响,并且在被日军偶然选中作曲的情况下不但创作了这首包含了委婉抵抗思想的曲目,更借着日军通过音乐歌曲推广普及日语殖民的契机让它在日军内部、日本本土甚至是东南亚占领区都产生了一定的影响力。理由有二:

1、梅花剧团中的一位名叫马骏的演员,尽管曾经在日军“东亚共荣”的舞台上作为表演者演唱过《五十音之歌》,然而Tatsuzawa考据到的资料显示,在太平洋战争开始前,马骏亦曾经在当地的“银月歌舞团”表演过“黄昏”编导抗日题材戏剧《猫和老鼠》(ネコとネズミ)。

2、马骏曾经作为华侨剧团的一员,尽管表面上与日军在当地的宣传势力虚与委蛇,但仍然以一种近乎于30年代左翼电影人或是抗战后沦陷区“孤岛电影”式的精神进行抗争。其中最为明显的证据就是黎锦晖本人创作的,以表达团结奋进为主题的儿童戏剧《三蝴蝶》,被马骏仅仅改了标题就改换为面向日军的《旭日の恵み》上演。

倘若马骏、黄昏两位剧团的团员受到黎锦晖创作影响(主观)的推论成立,那么《五十音之歌》的曲目原本的目的是为了日军的殖民统治,却通过这首歌曲实践了黎锦晖本人自新文化运动以来对包括儿歌在内的现代流行歌曲进行改造和再创作的艺术思想。偶然得知了这段历史细节,实在是不由得感到玩味和唏嘘。